校長ブログ 神様は私たちを期待しています(11月30日全校礼拝にて)
今日は高校3年生にとっては毎朝の礼拝としては最後の全校礼拝になります。
その礼拝で特に3年生に考えてほしいことをお伝えします。
イエス様のたとえ話を読みました。
王様に借金のある家来。
どうしても返済することができず王様に泣きつきます。
憐れに思った王様は借金を帳消しにします。
その家来、帰りがけにお金を貸している友人に出会います。
借金を返せと迫り、友人が準備はないと告げると牢役人に引き渡してしまいます。
そのいきさつを知った王様が、その家来を呼び寄せ、どうして私と同じように友人にもしてやらなかったのか、と叱り、彼を牢に放り込みます。
一見、人を許しましょうと言う例えにも見えます。
ただ、ここで言われていることは私たち個人的なふるまいへの勧めにとどまるものでなないでしょう。
ここにあるのは世界観です。
世界とは何か。
それが語られています。
世界にはどうして「悪」があるのか。
神様がいるのなら、そういう悪を全部退治してくれるはずじゃないか。
悲惨な現状と直面するたびに私たちが思うところです。
悪がなくならない。
神さまなんていないんじゃないか。
私たちにも「悪」はあります。
キリスト教の言い方では「罪」です。
人に絶対に知られてはならないもの。
友達にも、家族にも知られたら、自分の身の破滅のような「悪」「罪」があります。
それを隠すための嘘もつくでしょう。
ごまかしながら生きるでしょう。
それで成功して、なんとか自分の立場を維持できる。
人に対してはそれが可能です。
ただ、神様に対してはどうでしょう。
人には隠せても、神様には知られています。
罪ある私がどうして今日も、のうのうと生きていられるのか。
この世界にどうして「悪」があるのか。
この世界についての答えが今日のイエス様のたとえ話です。
なぜ悪があるのか。
罪人は私がどうして今日も生きていられるのか。
神が我慢をしているからです。
神はいないのではありません。
裁きを行わないでいるだけです。
我慢、忍耐があって、悪がこの世界にある。
罪ある私が生きることができている。
神はなぜ、我慢、忍耐をしているのか。
我満、忍耐を言い換えましょう。
期待をしているからです。
私たちは神様から与えられている賜物があります。
Only Oneがあります。
それを私が見つけられるために
それが世界に本当に必要なものだから、神は私たちに我慢をしている。
私たちに期待をしてます。
私は神に期待をされている。
希望を持たれている。
愛されている。
それがこの世界です。
この世界であなた達がすること
神の期待に応えなさい。