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校長ブログ 自分をつまずかせる「手」「足」「目」を切り離す(10月29日全校礼拝にて)

「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

新約聖書マタイによる福音書18章6~9節


「手」「足」が自分をつまずかせるなら、それを切り落とせ。
「目」が自分をつまずかせるなら、それをえぐり出せ。
体の一部を失っても、命にあずかる方が良い。

もちろんこれは比喩ですが、とても厳しいイエス様の言葉です。
この言葉が私たちに伝えたいと思っているものはなんでしょうか。

「つまずき」
行こうとしてる者を阻む。
進もうとしているものを倒す。
そのような意味でしょう。

イエス様は人をつまずかせるものは深い海に沈められる方が良い、と言います。
極端な言い方ですが、意味は分かります。
他の人ががんばっているのに邪魔をする。
一所懸命な人の妨害をする。
そんなことをする者は最低だ、ということでしょう。
人の迷惑になるな。
これは分かります。

ただ、問題はその次に続く言葉です。
自分の「手」「足」「目」が自分をつまずかせるなら、それを切り落とせ、と言います。
私が行こうとしている時に
私ががんばっている時に
その邪魔をするもの。
それは自分の「手」「足」「目」だと言います。
自分の邪魔をしているものは、自分の一部、自分自身だと言うのです。

自分を邪魔している「手」「足」「目」とは一体、なんでしょうか。
「手」「足」「目」これは自分自身であると共に、自分にとって大切なものです。
自分が決して失ってはならないとしている掛け替えのないものです。
私の大切なもの。
自分自身だと思っているもの。

私の価値観、
経験、
プライド、
正義、
友人、家族
私にとって大切なものです。

このイエス様の言葉は私たちが大切にしているOnly Oneを見つけた後の話です。
Only Oneを見つけて。
それを育て、続けていこうと進んでいる。
その時、私が大事だと思っているものとOnly Oneが衝突をする。
大切なものは失いたくありませんから、私たちは大切にしているものを守ろうとします。
それがなくならないようにしようとします。
ですがイエス様は言うのです。
捨てろ、と。
捨てなければ次に行けない。
先に進めない。
大切で、失ってはいけないものだと思い込んでいるもの程、私の心を曇らせている。
Only Oneを見失わせている。

勇気もいります。
恐れもあります。
大切だと思っているものを捨てるのですから。
ですが、捨てたからこそ見える世界があります。
行ける世界があります。
そこは私が予想、想定しいる未来より、
もっと大きく、ずっと広いところ、楽しいところです。

私が私を超えていく。
難しいです。
難しいですが、その難しさは挑む価値のあるものです。

Only Oneを歩む。
そこに近づく一日にしましょう。

聖学院中学校・高等学校
中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。
聖学院は、一人ひとりが神からかけがえのない賜物を与えられているという確信に基づき、それぞれ固有な賜物を発見することを助け、個人の人格の完成へ導く教育をします。聖学院教育はナンバーワン教育ではなく、オンリーワン教育であり、そしてそれはオンリーワン・フォー・アザーズ(他者のために生きる個人)の教育です。

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