校長ブログ 【シリーズ:聖書の思考回路】第24回
時空とは仮言命題です。
他のものと比較、依存して、時間も空間も成立します。
更にヨハネ福音書を読み解くために、もう少しだけ表現を補足させてください。
時間、空間とも「差異」が必要です。
差異を「距離」「隙間」「ディスタンス」としてください。
サマリアの女の質問は「この山ですか、エルサレムですか」です。
こことあそこは違う。
ディスタンスありますよね、との問いかけです。
このディスタンスに優劣をつけるとしたらどちらですか、という問いです。
イエスの答えは時間でした。
それも「今」という時間限定です。
「今」とはどういう時間か。
「今」は常に「今」です。
静止画と同じような性質でありながら静止していない時です。
「今」にディスタンスを入れ込むことはできません。
ディスタンス、隙間が生まれたらそれは「過去」か「未来」に瞬時に振り分けられます。
サマリアの女へのイエスの答え。
「あの山でも、この山でもない」「今だ」
ここの下敷きにあるものはディスタンスの否定です。
ディスタンスはない。
仮言命題にはディスタンスがあります。
「犬」と「かわいい」の間にはディスタンスがあります。
それを埋めるための「番犬の務め」です。
条件、原因、経由点はディスタンスがあればこそ生まれるものです。
ですから、これを私たちのテーマに引き寄せてまとめるならイエスの言葉はディスタンスの否定、仮言命題の否定です。
更に言えば、世界は仮言命題ではない、ということです。
蛇がアダムとエバに意識づけしたのはディスタンスです。
自分は神とは違う。
カインがアベルを殺そうと決意したのもディスタンスです。
自分はアベルとは違う。
ディスタンスが介入してきて、私たちの「現実」と称されるものが始まりました。
ただ、これは世界の途中から起こったことです。
世界の始まりはディスタンスの前、仮言命題の前があります。
私たちはOnly Oneを見つけようとしています。
ヨハネ福音書の世界観に従うならば、ディスタンスを介入させては見つからないものなのでしょう。
いつか、どこかで、かつて、あそこで
これらにはディスタンスがあります。
そこには聖書が目指すべき世界はありません。
Only Oneが見つかるところではありません。
今、ここ
ディスタンスのないところ。
私が私から分離したところにあるものではなく、私自身にあるもの。
いつでもあるもの
どこででもあるもの
どんなことがあっても変わることのない「なにか」
それがOnly Oneでしょう。
だからヨハネはI amとしか語らないのです。
私と違う述語、それはディスタンスだからです。
今、ここにあるもの。
今、ここを離れては見つからないもの。
ならば、今、ここで見つけましょう。
私には何があるのか。
私とは何か。
Only Oneは今、ここに潜り込むことでもあります。